2011年3月11日に起きた東日本大震災の時に埼玉県狭山市にいた、50代のKさんの体験談をご紹介します。
Kさんは震災時、スーパーの物流センターでトラックの洗車をしていました。
東日本大震災の時、私はトラックドライバーとして働いていました。
東日本大震災の際の体験を通して、トラックドライバーとして感じたことをお伝えします。
東日本大震災が発生
私は埼玉県狭山市にある物流センターのトラックドライバーとして勤務をしていました。
その日は早朝からの勤務で、午前2時から業務に就いていました。地震が発生した時間は、予定の配送業務が終わり、トラックの洗車をしていました。
トラックの荷台を水洗いしていた時、いきなりトラックが横揺れを始めました。
「誰かがいたずらでトラックを揺らしているのだろう」
そう思い、荷台から外に出て周りを見渡してみました。
しかし、近くに人はいません。
「おかしいな」と思いましたが、トラックの揺れがおさまることはなく、荷台から降り、周りの様子を見ていました。
すると、物流センター内の看板やシャッターが音を立てて揺れていて、ようやく「地震だ」と理解することができました。
揺れはとても長く大きく、今まで経験したことがない揺れでした。
事務所の建物の中から社員やパートさん達が一斉に外に出てきました。建物の中から出てきた人の中には、立ってられないのか、しゃがみ込んでしまう人もいました。
揺れが弱くなり「これでおさまるか」と思った次の瞬間、最初の揺れよりも大きな揺れが始まりました。
その時は私自身も立っているのがやっとの縦揺れ、横揺れが長く続けざまに襲ってきました。
ものすごく長く感じられた揺れがようやくおさまり、洗車の途中でしたがすぐに帰ることにして、事務所で点呼を受けようとしました。
しかし、停電のため、機械による点呼が受けられなかったので、帰宅することを事務員に告げ会社を出ました。
地震の影響が明らかに
帰宅途中の道路の信号機は停電により全て止まっていて、ところどころで渋滞がおきていました。
しかし、私はバイクだったので、ある程度スムーズに帰宅することができました。
家に着くと長女が家にいましたが、家の中は特に大きな被害は受けていなくて安心しました。
家のまわりは停電が解消されていて、テレビで地震の詳細を確認することができました。
テレビのニュースでは大津波警報が出ていましたが、自宅がある埼玉県は海がないので津波の心配はありませんでした。しかし、ニュースではしきりに津波警報の情報が流れていました。
そして、あの大津波。
言葉が出ませんでした。
まさか日本にあれだけの津波が来るなんて、思ってもみませんでした。
私の住んでいる地域はさほど被害は大きくなかったので、多少落ち着いて過ごすことができていました。
しかし、仕事がスーパーへの配送でしたので、翌日からの業務は困難を極めました。
地方からの商品が物流センターに入荷されないこと、特に東北地方からの入荷が完全にストップしてしまったためです。
私が勤めていた物流センターは、24時間、365日稼働していて日々スーパーへ商品を納品していました。
震災直後は「とりあえず今ある商品だけでも納品を継続する」ということが決定され、できるだけのことをしていました。
通常の配送が困難に
物流センターを出発したものの、ここからが大変でした。
一般道をはじめ、高速道路は通行止めの場所がかなりあり、通常であれば2時間ほどで店舗へ到着できるものが5〜6時間かかるようになりました。
商品を店舗に納品し、帰るのにまた5〜6時間かかって物流センターへ戻る、といった状況でした。
そこに追い打ちかけるように、川崎のコンビナートの炎上のニュースの影響で給油するための一般の人たちがガソリンスタンドに殺到しました。
そのため、道路の渋滞で更に時間がかかり、早朝2時、3時に出発したドライバーが物流センターに戻ってこられるのが夕方になってしまいました。
「当日納品しなくてはならない商品が全量店舗に届けられない」という事態が相次ぎ、各店舗の商品の欠品するという状態が続きました。
しかし、そういった状況でも物流センターの役割を果たすため、全員が「トラック1台分のわずかな商品でも店舗へ届けなければ」という思いで、休憩時間や睡眠時間を削って日々業務にあたっていました。
「業務にあたっていた」と言うよりは「戦っていた」と言った方が正しいかもしれません。
電力が確保できない
そういった日々の中で「物流センターとして稼働するために必要不可欠な電力が確保できない」という事案が発生しました。
理由は、原発がストップしてしまったためです。
物流センターでは、予備電力として発電機で多少の電気は確保できていましたが、燃料不足のため、発電機に必要な軽油の確保も困難になっている状況でした。
軽油はトラックの燃料にも必要となるため、全ての軽油を発電にまわすとトラックの燃料が不足し、配送ができなくなるという新たな問題が生じたのです。
それから全社をあげて燃料の確保にむけて動きましたが、必要数の確保はできませんでした。
その結果、物流センターの機能を優先し、トラックの稼働台数を減らして限られたトラックの台数で対応するという決断に至りました。
そんな状況が2週間、3週間、1か月が過ぎました。
ようやく落ち着きを取り戻し始めたのは、地震から2か月になろうとしていた頃だったと思います。
最後に
今思うと、とんでもないことが日本に起こりました。
それでも何とか立ち直ろうと、国民ひとりひとりたちが協力し合い、助け合いながら、今の状態まで復活できたことは日本人として誇りに思います。
ただ、忘れてはいけないのは、何万という人が犠牲になり、今だに行方がわからない人がいるということです。
そして今、当たり前に生活できることが当たり前ではないこと。
この震災で得た教訓を、後の世代へ語り継ぐことの大切さを皆で共有することが大事だと思います。