2011年3月11日に起きた東日本大震災で東京都で被災した30代のMさんの体験談をご紹介します。
Mさんは震災当日、友達とその子ども(3歳)の3人で買い物に出かけていました。
2011年3月11日に東日本大震災が発生しました。早いもので9年が経ちますが、まだ復興途中の地域や人々もいます。
年月の経過とともに、東日本大震災の記憶が薄れてしまいますが、大きな地震は今後も起きるかもしれません。
東日本大震災が発生した時に東京にいた私の体験談を残しておくことで、今後に活かせることがあると考えたので紹介します。
東日本大震災発生!その時私は
私は東京生まれの東京育ちで、夫と2人で東京のマンションで暮らしていました。
2011年3月11日、夫は用事があったために神奈川県の義実家に出かけていました。
私はこの日の午前中に同じマンションに住む女友達から連絡があって買い物に行くことにしました。お昼過ぎに女友達とその息子のTくん(3歳)と私の3人でバスに乗って出かけました。
お店に入ろうとした時に、まわりのお店のシャッターがガタガタと揺れているのがわかりました。
歩いていたので地震に気がつくのが遅れましたが、「あ、地震!」と言った直後に、ものすごい揺れを感じました。
東京に長く住んでいた私は、毎月のように起きる地震に慣れてしまっていて、震度3くらいならなんとも思っていませんでした。
しかし、震度5弱の地震は足がすくむような恐怖感を覚えました。
私は慌てて友達と2人でTくんに覆いかぶさるようにして、上から落ちてくるものを避けようとしました。
ようやく揺れが収まりました。とても長く感じられましたが、実際は3分くらいだったのでしょう。
「これだけ大きい地震だから、絶対余震が来る。建物の中に入らないほうがいいよ。」と言って、買い物をあきらめて広場のようなところにいました。
今の地震の情報が欲しいと思いましたが、携帯電話でもネットが繋がりにくく、街中のテレビを探しましたが見つかりませんでした。
何から考えたらいいかわからくなり、だんだん疲れてきたので、余震の後に落ち着こうとドーナツショップに入りました。
夫には携帯電話からメッセージを送っていましたが、返信がきていませんでした。
ドーナツを食べている間に夫からメッセージが3通まとめてきました。どうやらネットも混雑していたのでしょう。
夫としては私から最初にメッセージが来たものの、そのあと何の返信もなかったので慌てたらしく、3通目のメッセージはかなり慌てていました。
家に帰ろうとしましたが、全ての電車・地下鉄が止まってしまったので、道路は大渋滞です。その中をサイレンを鳴らした消防車が何台も走って行きます。いつもとは全く違う緊迫感のある走り方でした。
バス停で待っていても、ようやく来たバスは乗客でぎゅうぎゅう詰めで、無理して子供を乗せられる状態ではありませんでした。タクシーもずっと待っていても、ちっとも来ませんでした。
だんだんうす暗くなってしまったので、歩いて帰ることにしました。
まずは「停電する前に」と銀行へ行ってお金を引き出し、夕飯を済ませてから3人で歩きだしました。
街の異様な雰囲気を感じ取ったTくんはおびえてしまって、ぐずったり泣いたりを繰り返しています。仕方なく、交代で抱っこしたり、歩かせたりしながらようやく家に帰りました。
マンションに着くと、管理人が出迎えてくれました。いつもの管理人のおばさんの顔を見て涙がこぼれそうになりました。
「買い物するのも大変だったから、パンをたくさん買っておいたの。これ食べなさいね。ゆっくり休んでね。」
管理人のおばさんは私に優しい言葉をかけてくれ、パンとミネラルウォーターをくれました。
「マンションの各部屋にそれぞれがいるよりは、住民がまとまっていたほうがいいだろう」とのことで、マンションの集会所で過ごすことになりました。
ようやく、テレビを見て、東北地方が震源の大地震であったこと、東北地方の被害が大きく、東京の震度は5弱であったことがわかりました。
ずっとテレビをつけたままにしていましたが、ひっきりなしに鳴る緊急地震速報の音で一睡もすることができませんでした。
地震当日のまわりの様子
地震が発生した直後、全ての電車や地下鉄の運行がストップしました。数時間後に一部の路線で運行が再開されましたが、全ての電車の運行再開までには数日がかかりました。
私の住んでいる地域では停電や断水にはなりませんでした。しかし、ガスが止まってしまい、ガスコンロが使えず、お風呂にも入ることができませんでした。幸運にも、翌朝にはガスが使えるようになりました。
マンションの中には子どもを保育園に預けて働いているシングルマザーもいました。
地震直後に保育園から「お迎えに来てください」と連絡があり、あわてて保育園へ行くと昼寝中だった子どもはパジャマの上にジャンパーを着て園庭で待っていたそうです。迎えに行った時は、ふたりで抱きあって泣いてしまったと聞きました。
東北地方の被害が大きかったので、東京などの被害はあまり報じられていませんが、東京でも建物と道路の間に隙間ができてしまったり、壁が落ちたり、屋根瓦が落ちてしまった家もありました。大きな道路も路面が波打つように歪んでしまいました。
消防車は一晩中サイレンを鳴らして走り回り、水道管が破裂したところもありました。
私の部屋では棚の上の花びんが落ちて割れただけでした。しかし、マンションの住民の中には棚の上の加湿器が落ち、子どもをかばった母親が頭を切ってしまい、縫うほどのケガを負ってしまいました。
しかし、悪いことばかりではありませんでした。
外出先から家に戻るまでの間に帰宅困難者を受け入れるため、東京都の施設のホールが開放されていました。誰でも自由に使える施設で、テレビもトイレもあったので、少しだけ休憩させてもらいました。
すると、海外からの旅行者が訳もわからず途方に暮れていました。
その様子を見た一般の人がつたない英語で「ホテルどこ?電車が動いていないからホテルに戻る方法がないね。」
「もう暗くなるからここにいて。大丈夫ここにいていいから。」と一生懸命話しているところを見ました。
きっと話しかけていた男性も帰れなくなっただろうにと思うと、その優しさが沁みました。
地震の後も大変でした!
翌日、買い物をしようとスーパーへ行きましたが、品ぞろえが少なくなっていました。
高速道路は閉鎖し、一般道も通行止めになってしまったところもあったため物流が滞ってしまったためです。
ガスが使えない地域もあったため、すぐに食べられるものから売り切れてしまいました。パン、お惣菜、カップ麺、レトルト食品、缶詰などなど。
ようやく品物を手にできても、レジが長蛇の列で、スーパーなどの混乱はしばらく続きました。
友人や知人にはメッセージを送り連絡を取り合いました。
みんなが無事であったことがわかり、ほっとしたところ、夫からメッセージが届きました。「義母が体調を崩して、夜中に救急搬送された」とのことでした。
義母の家には、義姉夫婦と姪(20歳)と甥(6歳)が一緒に住んでいました。
義母は胃潰瘍をわずらっていたので、地震のショックからストレスとなり、吐血して救急搬送されたのです。
義兄は仕事先から戻ることができなくなり、義姉はお店を経営していたので、その後片付けをしなくてはならず、姪に義母の付き添いをしてもらうことになりました。
夜中に救急搬送をされた様子を目の当たりにしてしまった甥は、ショックで翌日から熱を出して寝込んでしまいました。
夫は用事も仕事もしなくてはならなかったので、私が神奈川県へ行って甥の面倒を見ることになりました。
原発事故の影響で、東京都と神奈川県は計画停電が実施されました。しかし、私の住んでいた地域も義実家のある地域も計画停電の対象外だったので電車も動いていたし、お店も開いていたのでなんとかなりました。
「計画停電の対象地域であったら」と思うとぞっとします。
東日本大震災を経験して準備したほうがいいと思ったものと見直した行動
東日本大震災を経験した私が感じた準備したほうがいいと思ったものと、見直した行動について紹介します。
準備したほうがいいもの ~買い置き編~
震災前は夫婦二人の生活だったのであまり買い置きをしていませんでした。食べ物も日用品も家になくなってから買いに行くような生活でした。
震災後は物流が滞ってしまったために品薄になってしまったので、1つ多めくらいの買い置きは必要だと感じました。
買い置きを勧めるものはこちら
- お米
- 缶詰、レトルト食品、パスタ、カップ麺、インスタントみそ汁
- ミネラルウォーター
- トイレットペーパー、ティッシュ
- シャンプー、石けん、洗剤
- ゴミ袋
- 飲み慣れた風邪薬、胃腸薬
- ばんそうこう、湿布、熱さまシート、体温計、マスク
- (女性の方は)生理用品
- (乳幼児がいる場合は)紙オムツ、粉ミルク、液体ミルク
- 懐中電灯
- 携帯の予備充電器
スーパーなどが品薄になるとパニックになってしまって、買い占めや買いだめなどの行動に走りがちです。普段から1つ多めに買い置きをしておくことで、冷静な行動をすることができます。
準備したほうがいいもの ~インテリア~
部屋の中のインテリアは使いやすさを中心に考えています。それを防災の面から見直しました。
私は写真を飾るのが好きなのですが、倒れて割れることがないようにガラスの使われているフォトフレームをプラスチック製に変えました。
また、棚の高い位置にはなるべく物を置かないようにして通路を確保するようにしました。
そして、出したものをすぐにしまう習慣をつけないと、いざ避難する時の妨げになってしまいます。出しやすく、しまいやすくて避難しやすく、ケガをしないような工夫が必要です。
準備したほうがいいもの ~連絡先~
災害にはいつどこであうかわかりませんので、いつどこでも誰にでも連絡が取れるようにしておきます。
連絡先の保管場所が携帯電話だけでは、充電が切れてしまうと連絡が取れなくなってしまいます。携帯と手帳など複数に連絡先をまとめておきましょう。
また「メッセージしか送れない」「電話番号しかわからない」など連絡手段が限られてしまうと連絡が取れなくなってしまうので、連絡手段も複数用意します。
準備したほうがいいもの ~電気を使わない遊び道具~
夫が職場の仲間たちと相談して、避難所に救援物資を届けることになり、その様子を聞きました。
夫はパンなどを運んだのですが、その時に車の助手席にアコースティックギターを積んでいきました。
パンを配り終えた後、夫はギターを弾き始めました。誰もが知っているような曲を弾くとたくさんの人が集まってきて、みんなが歌い始めました。
すると、避難所の雰囲気ががらっと変わったのです。
そんな様子を見ていた他の女性が、後日子どもたちと「道具をあまり使わない遊び」を教えていました。
だるまさんが転んだ、花いちもんめ、ハンカチ落とし、じゃんけん列車、お手玉、あやとり、なぞなぞなど。
その女性は元保育士さんだったそうで、子どもの相手は慣れています。
人は笑顔が戻ると、非難するだけでなく「手伝おう」「できることをしよう」と考えられるのです。
この話を聞いて「これなら私にもできそう」だと感じました。
まとめ
東日本大震災が発生した時東京にいた私は、足がすくむほどの恐怖感を覚えました。
東北地方の被害がとても大きかったので東京周辺の被害はあまり報じられませんが、水道管の破裂や道路が波打ってしまったり家の瓦や壁が落ちてしまったところもありました。
また、物流が滞ってしまったためにスーパーは品薄になり、人々は買い占めに走ってしまうこともありました。
しかし、海外からの旅行者につたない英語で話しかける一般の人や避難所で子どもと遊ぶ元保育士さんの姿に心がなごみました。
普段から災害に備えた準備をしておくこと、日常生活を大切にすること、他の人のことも思いやることで困難も乗り越えられると思います。