2011年3月11日に起きた東日本大震災の時に宮城県村田町で被災した、20代のAさんの体験談をご紹介します。
Aさんは震災当時、17歳でした。Aさんの通っていた高校は翌日に入学試験があり休校であったため、自宅でテレビゲームをしていました。
2011年3月11日に発生した東日本大震災では、観測史上類を見ない大地震に伴って大津波が発生し、東北地方太平洋沿岸地域を根こそぎ洗い流した。
当時17歳、まだ高校2年生だった筆者の震災体験、特に仙台空港周辺を自転車で通りかかった際に目にした光景を見たまま感じたままに書き記すものである。
震災前 前兆
2011年3月9日
三陸沖を震源とするM(マグニチュード)7.3の地震が発生した。
青森県から福島県にわたる東北地方の太平洋沿岸部では津波注意報が発表され、実際に岩手県大船渡市では津波が観測された。
津波の高さは55cm。
実際、津波の被害というものは皆無に近く、内陸部に住んでいた筆者にとって津波というものが被害をもたらすというようなイメージは全く持てなかった。
それまでも何度か津波注意報が出たことはあった。そのたびに、テレビではL字型のテロップと到達予想地域を示して避難を呼びかけていた。
しかし、津波が到達した後、それらの地域に被害が出たという情報を聞いたことがなく、「大したことのない情報を大々的に知らせる必要はないのではないか」と感じていた。
当時の筆者は、津波注意報をどこか疎ましくさえ感じていたのだった。
震災直前 日常
2011年3月11日
筆者の通っていた高校は翌日に入学試験を行うということで、在校生は休みであった。
筆者はその日の夜に同級生と焼き肉に行く約束をしており、焼き肉店の開店時間の直後に予約の電話を入れていた。
その後、当時はやっていたゲームを昼食も食べずに長時間プレイし、気が付いたらもはや午後の2時半を回っていた。
小腹が空いた筆者はカップラーメンにお湯を入れ、再びゲームを続けた。
そして、その時はやってきた。
震災発生 霹靂(へきれき)
2011年3月11日14時46分
三陸沖の太平洋を震源とするM9.0という、観測史上最大規模の地震が発生した。
といっても、これは後日知った情報である。
カップラーメンの出き上がりを待ちながらゲームをしていた筆者は微妙な揺れ感じた。
2日前に発生した地震と比べてそこまでの違いは感じなかった。
「前回の地震の余震だろう」
筆者がそのように認識した次の瞬間、それは起こった。
テレビが倒れ、当時ブラウン管だったテレビの上に載せていたDVDデッキが真横に吹っ飛んでいった。
棚という棚はすべて倒れ、建物はミシミシという音を立てていた。トラックが建物に突っ込んできたのかような揺れだった。
「とにかく外に出なくては」
筆者は一目散に玄関をめがけて走り出した。
といっても、揺れがひどく走るというにはお粗末な恰好であったが、とにもかくにも外に出た。
外には同じように屋外に飛び出してきた人たちがいた。
屋根の瓦はカタカタと音を立てて、今にも崩れ落ちてきそうな気がした。地面すらも音を立てて震えていた。電線は長縄跳びの縄のように揺れ跳ねていた。
発生直後 楽観
2分から3分程度だろうか、体感的にはさらに長く感じた揺れが収まった。
周囲の建物等に被害は見られず、火事が発生している様子もなかった。
「とりあえずは安心だ」
家に戻ると電気も水も使えなくなっていることに気づいた。しかし、当日中に復旧するものと思い、そこまで深刻にはとらえなかった。
揺れが収まった後に筆者が最初に行ったことは、伸びてしまったカップ麺をすすることだった。
スープがぬるくなり、本当に美味しくなかった記憶がある。
「夜に焼き肉を食べるまでのつなぎ」だと考え、とにかく流し込んだ。
その後、同級生に連絡を試みた。
携帯の電波はまだ通じていて、その日集まるメンバー一人一人に電話をかけた。
メンバー全員に特に被害はなかったが、「今日集まるのはやめにしよう」という意見が大半だった。
この期に及んで事態を把握できていなかった筆者は、みんなで焼き肉屋に行くのを心から楽しみにしていたので
何としても行きたかったのだ。
ようやく諦めがついたのは、焼き肉屋に営業の確認の電話を入れてからのことである。
「隣町にある焼き肉屋でも電気の供給が止まっていて、冷蔵庫や網が全く動かせない状況のため営業はできない」ということだった。
営業再開のめども立たないということであったので、筆者はそこでようやく諦めがついた。
ここでようやく、「何か大変なことが起きたのではないか」という認識を持つに至った。
震災発生日の夜 静寂
震災発生後数時間がするとすっかり日は落ち、あたりは暗闇に包まれた。
普段当たり前にあると思い込んでいた街灯の明かりや電化製品の稼働音、流しっぱなしのニュース番組などの一切がなくなった。
人生で初めての経験である。
本来の夜はこんなにも暗く、静かなものであるのだと実感した。
暖房器具も動かないので、自室で毛布に包まって寒さをしのいでいると父が帰宅してきた。
特にケガもしておらず無事な様子である。
我が家は父と筆者の2人暮らしのため、とりあえず家族には被害はなかったことを確認して安堵した。
その日の夕食は買い置きのカップラーメンだった。
筆者は昼に続いて同じものを食べることになったため、著しく士気が下がった。
プロパンガスは問題なく使えたが、水が出なかったため、冷蔵庫で作り置きしていた麦茶を沸かしてカップラーメンを作った。
きっとすさまじい色のスープになっていたと思うが、停電していたため、幸か不幸かそれを見ることはなかった。
味やにおいにこれといった違和感を感じることなく、食べることができた。少なくとも、昼に食べたカップラーメンよりは美味しかった。
食事を済ませたあとは特にやることもないので床に就いた。午後の8時前後のことである。
「そんなに早く眠ることはできない」と考えていたが、静けさも相まって30分もしないうちに眠りについたと思う。意外と普段よりもよく眠れたかもしれない。
震災発生翌日早朝 底力
震災翌日の3月12日は午前4時に起床した。
前日早く寝たからというわけではなく、これが筆者のいつもの起床時間である。というのも、新聞配達のアルバイトをしていたためである。
いつも通りの身支度を整え、販売店に自転車で向かう途中の道はいつもとはだいぶ違っていた。
地震の影響で道路にはところどころ亀裂が入っており、自転車のタイヤが挟まってしまうような大きい亀裂もところどころ確認できた。
また、ブロックタイルを敷き詰めた道はひどく荒れていて、陥没しているところもあれば隆起している箇所もあった。
普段、自転車で勢いよく走り抜けている道が、細心の注意を払って通らなければたやすく転倒してしまうような危険な道に変わってしまっていたのだ。
当然、街灯は停電のため一切ついておらず、自転車の小さい前照灯のみが頼りの中、販売店へと向かった。
販売店や配達員の同僚は全員無事だったことに驚いた。
しかし、それよりも驚いたことは、新聞がいつも通り店に届いているということだった。
ライフラインは止まり、道路が傷んでいる箇所もあり、街灯もついていないような中でこんな田舎町にまでよく届けたものだと新聞社と物流の底力に心底感動した。
新聞の記事には今回の地震のことだけが書かれていた。そして、一面の写真には、筆者が全く想像できなかった光景が写されていた。
震災発生翌日 崩壊
新聞配達の仕事を終えて家に帰ると、父が古いラジオを持ち出してニュースを聴いていた。
「宮城県で震度7を観測、沿岸部は大津波で壊滅状態」
どのニュースも報じている内容は同じだった。
筆者は販売店からもらってきた新聞を父に手渡した。そこには津波により壊滅した街の様子を写した写真が載っていた。
私はこのような出来事が起こっているということが全く理解できなかった。
今まで何の被害ももたらしてこなかった津波が、街をここまで破壊する光景が全く想像できなかった。そしてこの日、自身の日常生活にも影響が出始めていることをようやく実感できるようになった。
まず、食料品がを手に入れられなくなってしまった。
スーパーは食材の投げ売りをしていたが、冷凍食品やレトルト食品、インスタント食品はあっという間になくなってしまい、生鮮食品もほぼ売り切れていた。
我が家が確保できたものといったら、わずかな米と数個のカップラーメン、カレールーにじゃがいもであった。
ATMが利用できなくなってしまったため、使えるお金もほとんど残されておらず、我が家に残っている食料と合わせても、せいぜい3日程度の食料を確保するのが精いっぱいであった。
また、人の移動がほぼ完全に停止していることを実感することができた。
食料品を探すために隣町まで自転車で移動した際、幹線道路である国道4号線の路肩に乗用車が乗り捨てられている光景を目にした。それは1台や2台ではなく、見渡す限りずっとそのような状況が続いていた。
さらに、国道沿いの店はほぼすべて営業をしておらず、通っている車両は警察と消防、自衛隊のみという状況だった。
ガソリンスタンドは非常用車両のみに給油を行っていたため、一般車両の給油は受け付けないという状況だった。そんな状況では、スーパーに食料が届く日が来るかどうかも怪しいと感じた。
震災発生二日後 探索
震災発生から1日が経過し、食料品の調達がうまくいかず、再び入荷される見通しも立たない状況に焦りを感じていた。
自衛隊が給水所を設けてくれていたため、飲み水には困らなかった。
しかし、自宅から給水所までは約1km離れており、何リットルもの水を担いでその間を移動するのも容易ではないので無駄使いはできなかった。
いつものように新聞配達の仕事を済ませたのち、質素な朝食をとった後、仙台市方面に向けて自転車を走らせた。そちらのほうでは食料品が比較的手に入りやすいという情報を耳にしたためである。
筆者が住んでいた宮城県村田町から大型スーパーなどが点在している名取市や仙台市南部までの距離は約20kmほどであり、3時間もあれば到着する計算だった。
午前6時に家を出て、国道4号線沿いを移動した。しかし、めぼしいスーパーにはどこも長蛇の列ができていた。
「これ以上後ろに並んでいては食料品を買うことなどできない」
再び自転車を走らせ、午前7時頃予定よりもだいぶ早く、柴田町のスーパーに並んだ。
開店まで1時間以上待った結果、インスタント食品等のある程度の食料を購入することができた。
その後、仙台市方面はどのような状況なのか気になり、国道4号線を北上することにした。
途中の信号機はほとんど止まっていたが、仙台市から南に20km弱に位置する岩沼市あたりから稼働する信号機が見え始めてきた。
あいかわらず一般車両は国道の両脇に乗り捨てられていて、走っている車両はほとんど自衛隊車両であった。しかも、自衛隊車両は東北の部隊ではなく、関西や九州等の遠方から派遣されていることを示す垂れ幕がかけられていた。
途中でふと川を見たときに妙なことに気づいた。川の両岸に車やがれきなどが散乱していたのだ。
大規模な津波は川を遡上して海から遠い地域にも被害をもたらすということを知ったのは、電気が復旧してその映像をテレビで見ることができた時であるため、この時点ではどうしてそうなっているのかが全く理解できず、不気味に感じた。
そうしているうちに、ある交差点に差しかかった。右折すると仙台空港へと通ずる大きな交差点である。
前年に修学旅行で仙台空港を利用した筆者は気まぐれでその道を右折し、仙台空港方面へと自転車を走らせたのであった。
発生二日後 大量のがれきとヘドロ、悪臭
交差点を右折すると荒れてこそいるが、これまでと特に変わらない道路が続いていた。
国道4号線と平行に南北に走る仙台東部道路という道路の下をくぐり、しばらく進んだ時、異変に気付いた。大量のがれきとヘドロのようなものが道路にたまっていて、自転車を漕ぎ進めることができなくなってしまったのだ。
津波で押し寄せるものは水だけではない。大量の土砂やゴミ、がれきも一緒に流されてくる。それらがまんべんなく、どこまでも堆積しているため、自転車を道路脇に停めて徒歩で移動することにした。
その際、通常の運動靴できたことを後悔した。堆積しているヘドロが思いのほか深く、靴の中に入り込んでくるのだ。しかもそのヘドロが、どぶだまりのような悪臭を放つ不衛生極まりない代物だった。
そんなヘドロを踏みつけて歩みを進めると、セブンイレブンの看板が見えてきた。といっても横倒しになった看板である。
店舗のほうは目も当てられないほど破壊されており、大量のヘドロをかぶったアイスクリームなどが残置されていた。
また、当時はコンビニでは、公衆電話ボックスが設置されていることが一般的だった。
公衆電話ボックスをのぞいてみると、ヘドロまみれでぼろぼろになっていた。中には当時の二つ折り携帯電話が開いた状態で放置されていた。
この携帯電話の持ち主は、携帯がつながらない状態で誰かに連絡をするために公衆電話を利用しようとしたのだろう。そして、携帯電話を放置してここを去らなくてはならないほどひっ迫した状況にさらされてしまったのだろうか。
あの携帯電話の持ち主が無事であることを今でも願うばかりである。
コンビニをあとにして空港方面にまたしばらく進むと、見張りに立っている自衛官がちらほら増えてきた。
震災後、津波被害を受けた地域で火事場泥棒が出たという情報があった。ひどい時は遺体から財布を盗むというようなことを平然と行うような輩がいたらしいので、その警戒のためだろう。
制服を着た人間が立っているだけでもどこか安心感があるものである。震災時の自衛隊の活躍が称賛されるべきものであることは間違いない。
仙台空港の近くには航空大学校の広い施設がある。そこには巨大な団子ができていた。
食べられる団子ならよかったのだが、何台もの車や小型飛行機が重なり合ってできた鉄の団子である。津波に巻き込まれてできたものであることは間違いない。
「もし車に取り残されていた人がいるとしたら助かることはない」
そう確信できるほど大きな鉄の団子だった。さすがに車の中を見ることはできなかった。
団子の周辺のヘドロは漏れ出た燃料が混じった虹色の水たまりができていた。
ヘドロ特有のどぶの臭いとガソリンなどのつんとした臭い、どこからしてくるかわからない肉が腐ったような臭いがまじりあっていて、5分も立ち止まらなかったのに気分が悪くなった。
筆者は急いで家路についた。
途中、何故か道路のど真ん中に存在する民家の2階部分や、懸命にがれきの撤去を行う自衛官の方々の姿を見た。
家に着くと、自分の体にヘドロの臭いが染みついてしまっていることに気づいた。
風呂に入ろうにも水は通っていない。
そのまま過ごすことはできないので、シャンプーやボディソープを持って近所の池で体を洗った。3月とはいえ、まだまだ肌寒い時期にパンツ一丁になって外で冷水を浴びるのはさすがに堪えた。しかし、あのまま家に入って過ごすよりはましだと感じた。
震災発生一年後 復興の兆し
震災から約一年が経過した2012年3月、筆者は仙台空港の近くを通りかかる機会があった。
多くの建物の基礎部分だけが残されており、かつて市街地だった場所は道路のみを残してだだっ広い平野と化していた。そこに元の市街地が戻るまで何十年という年月がかかるだろう。
しかし、あのヘドロと油の混じった悪臭が漂っていないというだけでも復興は着実に進んでいると感じた。
まとめ
東日本大震災のよう大規模災害では、ライフラインや通商路の寸断等で物資や情報が極端に不足する事態が発生する。
そうなったときのために備えて食料等の準備をしておくと、被災した際に物資の確保のために移動する頻度を減らすことができる。
また、壊滅的な被害を受けた地域以外は状況の深刻さを理解することが難しいので、ラジオ等の情報源を用意することで被害の全容を正しく理解し、今後どのような行動が必要になってくるかを考えることが重要である。
さらに、水が十分に確保できなくなると、飲み水不足だけではなく衛生面のリスクも増してくる。給水所の情報を早めに入手したり、日ごろから浴槽に水をはることを心がけることも効果的である。