2011年3月11日に起きた東日本大震災で福島県いわき市で被災した50代のNさんの体験談をご紹介します。
Nさんは岩手県宮古市にお住まいでしたが、震災当日は出張のため、福島県いわき市にいました。
2011年3月11日に発生した東日本大震災
岩手県、宮城県、福島県の3県に住んでいた方々は、同様に恐怖と悲しみを体験したかと思います。
今年の2020年3月でまる9年が経ちましたが、思い出したくない方もいらっしゃることかと思います。
ただ、あれだけ多くの人が亡くなり、未だに故郷に帰れない人々もおられます。
私は大きな被害もなく生きていますが、あの体験は何かしらの形で残せればという思いでこの記事を書かせていただきます。
震災発生時
私は岩手県の宮古市に住んでいましたが、当日は出張で福島県のいわき市に行っており、そこで大地震が発生しました。
かなり大きな揺れで、建屋の外に出張先の会社の従業員全員が避難しました。その時の私の感じ方としては、1978年に起こった宮城県沖地震と同等くらいと思っていました。
何度か余震が続いていましたが、だいぶ落ち着いてきたので屋内に入りテレビニュースを観ました。
すると、宮古市のニュースが流れ、私がよく知っている道の駅が海水に浸かり、車が流されている映像が流れていました。
現実とは思えない映像でした。
「自分の家はどうなっているのか」
不安が広がりました。
しばらくすると、出張先の従業員が海沿いから戻ってきて「大変なことになっている」と話していました。
幹線道路は津波で通れなくなっているとのこと。
このとき滞在していた建屋は、丘の上にあったので津波の影響はありませんでした。
東北自動車道路は通行止めとなっていたので、その日は出張先の会社で泊まらせてもらいました。
一晩中余震は続き、そのたびに目が覚めました。
携帯電話は地震直後はつながったのですが、しばらくすると圏外表示で使えなくなりました。
妻とは携帯電話が使えなくなる前に連絡が取れ、無事を確認することができました。
妻は一人旅行に車で出ており、福島県の内陸で地震にあったとのこと。その後はどうなったか不明となってしまいました。
地震発生翌日
一晩出張先で過ごしましたが、状況はよくわからないままでした。
しかし、宮古市にある自宅に帰ることを決め出発しました。
出張先の従業員の方から営業しているガソリンスタンドの場所を教えてもらい、給油するためにと若干遠回りになるルートを選びました。
ガソリンスタンドに行くまでの道で、既に現実とは思えない光景が見えてきました。
「やはり津波が発生したのだ」
ようやく実感がわいてきました。
この時点ではガソリンスタンドにそれほど並んでいることはなく、すんなり給油することができました。
さいわいにも、乗ってきた社用車はハイブリッド車だったので、満タンにすればいわき市から宮古市までは余裕で帰れるので一般道をひたすら走りました。
朝から何も食べてなかったので「コンビニで何か買って食べようか」と普通に思って中に入ると、何か違和感がありました。
通常あるはずのおにぎり、弁当、パンなどがなく、いっさい品切れの状態でした。
やむを得ず、多少残っていたスナック菓子やら飲み物などを仕入れて、また走り出しました。
何が起こっているかわからなかったので、「できるだけ幹線道路を走ろう」と思い、国道4号線にむかいました。
走るにつれ、地震の規模も相当なものだったことがわかってきました。
建屋が崩れていたり、道路が陥没していたりいました。さらに、ガソリンスタンドに渋滞ができ始めていまいした。
ラジオを聴いていると、津波の被害が徐々にわかってきたようで、既に何百人もの人が亡くなっているという報道で、恐怖を感じながら走っていました。
さらには、福島第一原子力発電所の爆発報道でパニックになりそうでした。
「一般道を使っても、通常なら丸1日かければ家まで帰ることができる」
そう考えていましたが、福島県を抜ける頃には既に20時をまわっていました。
宮城県にはいったのですが、街中は停電のため、真っ暗で山の中にでも迷い込んだような暗さでした。
信号機も停電で停止しており22時を過ぎていたので、移動を断念しました。
車中泊することにして、駐車できるところを捜して停車しました。
地震発生3日目
朝6時くらいになると明るくなってきて目が覚めました。
高速道路を使えばいわきから盛岡までは4時間で着くのに、一般道で、しかも渋滞のため、「丸一日かけてやっと宮城県に入ったところか」と朝起きて思いました。
改めて高速道路のありがたみがわかりました。
昨日からろくなものを食べてないにもかかわらずあまり空腹ではありませんでしたが、コンビニがあったらとにかく寄ってみました。
しかし、どこに入っても停電で食べ物はほとんど売っていませんでした。
また飲み物とスナック菓子だけ買って、ひたすら国道4号線を北上しました。
信号機は停電のため、いたるところで停止していました。
あいかわらず渋滞が続き、ガゾリンスタンドは長蛇の列ができていました。昨日すんなり給油できたのが不思議でした。
今思うと、地震だけでなく津波も発生したため、翌朝はガソリンを給油することなど頭になかったのかもしれません。
私が移動中困ったことは携帯電話の充電です。
AC100用のアダプタは持ち歩いていたのですが、自動車の移動だったため充電できなかったのです。
車用にシガーソケット用の充電器を買おうとしたのですが、みんな同じ事を考えているようで、どこに行っても売り切れでした。(今は常に両方使えるように持ち歩いています。)
私は残り少ないバッテリーで何度か妻に連絡をとろうとしましたが、つながることは1度もありませんでした。
しかし、まだ携帯電話がつながっていた時に安否の確認ができていたので、それほど心配はしていませんでした。
夕方くらいに何とか岩手県に入りました。
やはりガソリンスタンド渋滞が続いており、宮古市へ向かう分岐点までたどり着いたのは日が落ちたころでした。
宮古側へ曲がろうとすると警察官が立っていました。
「宮古方面には今は行けませんよ」
と言われました。
「そうですか」と軽く引き下がったのですが「家があるのだから行くよ」と警察官に話しました。
「自己責任で行って下さい」
すんなり通してもらいました。
何が起きているのか不安になりながら車を走らせていると、コンビニが開いていました。
コンビニには電気がついていたので「案外、報道されていたより被害は少なかったのかな」と思いました。
何とか家にたどり着いて恐る恐る中に入ると、妻はやはりまだ帰っていませんでした。
家の中は皿が数枚割れていた程度で少し安堵しました。電気もつくし水道も問題なく使えます。
ただ、携帯電話は圏外になったままでした。固定電話も使えなくなっていました。
「公衆電話が使えるかもしれない」と思い、近く電話ボックスまで行きましたが、やはり使えません。
そして、街の中をそのまま進んで行くと、異様な臭いと真っ暗な闇がありました。
当たり前なのですが、未曾有の大津波が起きていたのです。
終わりに
次の日は月曜日で、とりあえず会社に行きました。
街中に船が乗り上げていたり、海にあるウキが電柱に引っかかっていたり…
あり得ない光景を見ながら会社に向かいました。
会社自体は大きな被害は出てなかったようですが、駐車場上に停めてあった同僚たちの自家用車はほとんど海水に浸かってしまったようです。
会社自体も断水と停電のため仕事できる状態でがなかったので、そのまま解散ということになり、連絡があるまで自宅待機になりました。
1週間程でインフラが復帰したという連絡を受けました。
私はそれまで慣れ親しんだ景色がすっかり変わってしまい、悲しみがこみ上げてきました。
この後、まだまだ復興には時間がかかりましたし、書き切れないことが沢山ありますがこのへんで終わらせていただきます。