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【地震体験談】東日本大震災に揺られて―新宿駅前から八王子へ

 

2011年3月11日に起きた東日本大震災で外出先の東京都新宿区で被災した30代のNさんの体験談をご紹介します。

 

Nさんは震災当日、アルバイトの面接のため、自宅のある東京都八王子市を離れ、東京都新宿区にいました。

 

 

 

2011年(平成23年)3月11日14時46分に発生した「東日本大震災」からちょうど9年が経ちました。

 

震災の名前は「東日本」で始まりますが、東日本の人々のみならず日本全国に影響した震災となりました。

 

現在、私は小学生に防災の一環として震災の歴史の話をする機会があります。しかし、残念ながら彼らにとっては遠い昔の物語になりがちです。

 

「人間、何とかなる」という前向きな気持ちは大切です。

 

「何とかなる」ためにも、私のリアルな体験談を通じて、一つの生き抜き方をお伝えしたいと思います。

 

 

薄着でアルバイトの面接会場へ

 

当時、私は大学3年生でした。

 

進学して「博物館のことについて研究したい」と思っていたところ、展示設営のアルバイトを見つけました。設営といえば、ガテン系。私には未知の世界です。

 

しかし、博物館の裏側を知っておくと業者のやり方を踏まえた企画ができると思い、勉強とのことで思い切って面接を申し込みました。

 

 

面接の日程は、3月11日の14時でした。

 

服装は自由とのことでしたので、日中に帰宅する予定で襟付きのシャツ1枚に薄手の上着、膝丈のスカートにカラータイツでした。

 

先方も設営の世界とは無縁そうな私に対し、「汗たくさんかくよ?大丈夫?」と心配そうでしたが、やる気を見てくださり、合格となりました。

 

 

面接会場は古いアパートの一室で、棚にはヘルメットや工具がたくさん置かれていました。

 

書類にサインをして手続きを待っていると、ホッとしたのか、めまいがした気がしました。

 

しかしその直後、激しい揺れに見舞われました。

 

 

事務室のスタッフが「これをかぶって机の下に潜って!」とヘルメットを渡してくださり、その通りにしました。揺れが収まるまで、私は何が起きたのか全く分からず頭の中は真っ白でした。

 

揺れが収まると、スタッフから早く「帰宅した方がよい」と言われ、会場を後にし、新宿駅に向かいました。

 

 

北も南もわからない新宿駅で

 

当初、「早く帰宅した方が良い」というスタッフの言葉の重みはあまり感じていませんでした。駅に向かいながら「すぐ帰ることができるだろう」と思っていたのです。

 

しかし、駅前の状況を見て異変を感じ取りました。多くの人々が路上に立ち止まっていたのです。

 

八王子生まれの八王子育ちだった私は都会はせかせかと歩いている印象がありましたので、この時点でおかしいと感じました。

 

携帯電話で自宅に電話するも繋がりません。

 

いわゆるガラケーで電池の持ちがよいことが自慢でしたが、残念なことに通話もネットも繋がりませんでした。

 

女性の悲鳴が聞こえ、振り返ると、ショーウインドウのガラスが割れて破片が散らばっていました。

 

焦る気持ちを抑え、JR新宿駅の改札に向かうと電車が動かず、ここにも人が多く集まっていました。

 

「JR中央線がだめならば、八王子には京王線がある」と思い、京王線の駅を探して歩きました。

 

まったく土地勘がなかったのですが道を聞きながらようやくたどり着き、目にしたのはやはり改札前の人だかりでした。

 

この時点で私は、やっと冷静になり、容易に新宿駅を脱出できないことを受け入れました。

 

つまり、八王子に帰るために電車が動くことを待つにしても、甲州街道を歩くにしても、長時間の勝負です。

 

まず、足早に食糧と水の確保、そしてトイレの場所の確認をしました。

 

「油は腹持ちがよい」という中学時代の家庭科の先生の言葉を思い出し、面接を受ける前に通った某ファストフード店でナゲットを買って食べました。自動販売機で水を購入し、トイレを済ませました。

 

所持金は2000円ほどで、無駄遣いはできません。

 

「何とか自宅と連絡が取れないか」と考えを巡らせたところ、「携帯電話と固定電話は線が違う」と父に教わっていたことを思い出し、急ぎ足で駅の構内表示を見ながら公衆電話を探しました。

 

公衆電話にはまだそれほど人がおらず、すぐ八王子の自宅に電話をかけることができました。

 

母が電話に出たので、無事であること、駅で電車を待つが復旧の見通しが立たない場合は甲州街道を西に歩くと説明し、電話を切りました。

 

 

「先にも後にもこれが最後の電話となるかもしれない」

 

と思いましたが、不思議と寂しくはなく、自分の身体を使って生き延びるというサバイバル精神が芽生えたように思いました。

 

 

京王線に揺られて

 

しばらく改札前にいると、「すべての地下鉄において今日中の復旧の見通しが立たない」というアナウンスが入りました。

 

薄着で出かけたことを悔やむくらいの寒さとなり、じっと黙って待ちました。

 

周囲を見回すと、不思議と皆冷静でした。

 

駅員の皆さんが銀色のシートを配ってくださった時も、端から順に敷けるように回すなどパニックは全く起きませんでした。

 

「他者への気遣いがこのような時にもみられるのか」と感動したことを今でも覚えています。

 

 

そのうち、中央線も動かず、残る望みは京王線一本となりました。これが動かなかったら、歩いたこともない甲州街道を歩かなければならないのです。

 

途中でコンビニがあるとも、営業しているともわからないまま、トイレの確保に苦しむ心配がよぎりました。

 

しかし、運転再開のアナウンスが流れました。

 

その時どっと歓声が沸き、私も感謝の気持ちで電車に揺られました。車内は混雑していましたが、疲労と安堵の空気に包まれていました。

 

京王八王子駅に到着すると、携帯電話で連絡が取れ、家族全員が車で迎えに来てくれました。

 

私の顔を見るなり、母と弟が地震直後に食器棚が倒れないように必死に抑えていたことを話したので、「むしろその時は大型家具から離れようよ」と話していたことを覚えています。

 

その後も計画停電がありましたが、庭に挿してあったソーラー式のライトや仏壇のろうそくで明かりをとりました。

 

冷蔵庫の食料は、不要で捨てようとしていた大量の保冷剤とクーラーボックスで乗り越えることができました。

 

 

まとめ

幸運にも、私はその日中に京王線に揺られて帰宅することができました。次回はそうはいかないこともあるでしょう。足の悪い母といた場合、甲州街道も容易に歩けません。

 

震災で必要と感じたものは3つあります。

 

1つ目は、薄着で悔やんだことから、寒暑対応できる道具としての手ぬぐいです。

 

2つ目は、公衆電話用の10円玉や100円玉です。

 

3つ目は、庭がある家ならば複数のソーラー式ライトです。

 

そして、どこにいても最後は自分の身一つで極限の状況を脱出しなければなりません。そのためには、冷静に判断する心と知恵が必要です。

 

私は中学時代の先生や父のちょっとした使える話を引き出すことができました。

 

 

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