関東大震災と歴史―東京・日野市に伝わる日記から

 

1923年(大正12年)9月1日午前11時58分に発生した「関東大震災」から100年近くの年月が経とうとしています。

 

100年前と聞くと、ひと昔もふた昔も前のことに聞こえるかもしれません。

 

しかし、関東大震災を体験した人々は、今から9年前に起きた「東日本大震災」と同じような恐怖を感じながら身を寄せ合って生きていました。

 

ただ、当時の記録や語り継ぎは、なかなか私たちの耳や目に触れる機会が少ないと思います。

 

本記事では、東京都日野市を舞台とした関東大震災の体験談をご紹介します。

 

 

 

日野市はちょうど東京都の中央に位置します。

 

当時、日野市は日野町(現在の日野市のおよそ北側一帯)と七生村(同市のおよそ南側一帯)の二つに分かれていました。

 

前者の日野町に住んでいた宇津木繁子さんという女性が書き残した「大正十二年カントウ大震災日記」(『日野市史史料集 近代2 社会・文化編』所収)の一部をニュアンスを崩さずに現代の言葉でお伝えします。

 

皆様にとって「災害」を考える一助となれば幸いです。

 

 

お腹をすかせた子どもたち

大正12年9月1日。この日、日野町の人たちは八坂神社のお祭りだったので、その準備にいそいそと動いていたところ、異様な響きとともに大きな揺れがあり、あわやという間に土蔵はみんな崩れ、木造の家は倒され、(漆喰や土でできた)壁は落とされ、実に大惨害を被った。激しい揺れが絶えず3回ほど続き、町の人を悩ませた。

夕方になっても揺れは止まなかった。近所の子どもは昼食前の子が多かった。『お腹がすいた、すいた』と哀れだった。主人が『揺れの合間を見て炊き出しをしたらどうか』と言った。母も同じ気持ちだったので、カマド(火で料理する場所)を家の外に出して炊き出しをして、近所の人たちにふるまった。子どもたちはみんな大喜びでほとんど平らげた。

 

日野駅周辺は最初の激しい地震で家が2軒壊れ、道路には亀裂が所々あり、水が噴き出していた。東京や横浜は火災が起こり、今は火の海という。火の手は72カ所に起こったという。夜は家の外で恐ろしい一夜を明かす。

 

「大正十二年カントウ大震災日記」より抜粋

 

お祭りの準備でさぞかし賑わっていたでしょう。

 

その中での突然の地震と、家の倒壊。

 

そして、子どもたちの空腹に町の人々はパニックに陥りました。しかし、すぐ炊き出しを行い、近所にふるまうという心意気が垣間見えます。

 

みな顔見知りの中での個人の炊き出しは、現代の人々の繋がりでは簡単にはできないことだと思います。

 

 

止まない揺れ、デマ、眠れない夜

9月2日。この日は昨日ほど強い地震ではなかったが、絶えず揺れていた。そのため、食事は全て家の外で済ませた。主人は清水さんの安否を確認するため八王子に行った。やはり土蔵はみな崩れていて、家は壊れていたが、幸い命に別状はなかったという。みんなで喜んだ。森田さんも大丈夫だという。

 

午後になって町の人たちの心意気で道路に散らかった土(壁)を片付けて通れるくらいの道を作ってもらう。この日はそれだけで、夕方に夕食を食べ始める。お酒を出す。食べ終わる頃、朝鮮から来た人たちの暴動が起きたと騒ぎ始めた(これはのちにデマだったことが分かる)。

 

町の人たちは驚き、みんな手に竹やりなどを持って夜通し番をした。夜12時頃に大雨が降った。揺れは止まなかった。朝鮮から来た人たちが町に入ってきたら鐘をついて合図をするとしていたが、午前2時頃に鐘をついた。みんなとても驚いたが、しばらくして違ったと聞き、ひと安心するも、恐れながらまた一夜を明かした。

 

親戚が心配だったが、汽車も電信や電話もみんな通じなくて、安否は分からなかった。東京はまだ火の海だという。空に反射して真っ赤に見える。死傷者は多く目も当てられないほどひどいとのこと。午後、日野町四ツ谷の伯父さんが来てくれた。

 

「大正十二年カントウ大震災日記」より抜粋

 

9月でも暖かい日だったそうですが、夜も外で食べなければならないのは辛かったと思います。

 

また「道路を片付けて道を作り、一晩中晩をした」とあります。

 

前日の炊き出し時にもみえるように、助け合いによって震災2日目を乗り越えています。

 

 

人とのつながりが心を強く

9月3日。今日も揺れが激しいのでみんな何もしないで静かに過ごした。前の理髪店を変えて仮事務所を開き、そこを拠点に地域の青年団(若者が入団し、地域のために動く組織)や軍人、消防隊が総出で夜を徹して警備した。夜は近所の家を借りて見張りもしていた。夜12時ごろにまた強い地震があると知らせがあり、町の人たちはみんな家の外で12時を待った。やがて12時半に揺れがあり、みんな驚いた。夜は家の造りが危険だからと、親切に言ってくれたので鍛冶屋(かじや)に泊めてもらった。

 

午前、浅川の方から茂さんが来た。これからある町の様子を見に行くという。そのある町は幸いにも火災に遭わなかったが、近くで放火があるから危険だと言っていた。夜12時頃に森田さんが東京の帰りと言って訪ねてくれた。大伝馬町(現在の中央区日本橋)は焼けたが、幸い実家の方は大丈夫だったという。東京は悲惨なありさまだという。

 

9月4日。今日も揺れは止まず、町の人たちを脅かした。立川飛行隊から兵士が来たといい、町の人たちは心強いと思った。夜11時頃にまた強い地震があり、みんな家を飛び出した。事務所にいる時に、立川から志野少尉が来て『今夜は部下8人連れて電灯も2つ持ってきたから皆様安心して休んでください』と有難い言葉を聞き、力強いと思った。

 

消防員や軍人は連日連夜の夜の晩で気の毒だった。汽車も3回ほど運転を始めたという。今日は、避難者は無賃輸送し、屋根の上まで人がいたという。」

 

「大正十二年カントウ大震災日記」より抜粋

 

全員が疲れている中、家の倒壊を心配し、泊めてくれた人がいました。

 

そして、デマ騒動のために連日連夜の警備をし、人々を安心させてくれています。

 

 

まとめ

この後、宇津木さんの記録は10月5日まで続きます。

 

揺れはずっと続くも、9月7日には電気が復旧し、「別世界へ来たような気がした」と綴っています。

 

この後、店の大きな損害で物資が不足して大変な中にあっても「9月24日の豪雨により東京では浸水や布団類も濡れた」という新聞を読んで「哀れ」と共感するなど、他地域の被害にも目を向け、心を痛めていました。

 

日野町では、炊き出しのほか、近所の人たちが道路の土砂を片付けてくれたお礼に夕食やお酒、お風呂をご馳走するなど、絶えず助け合いの中で生き延びてきたことがわかります。

 

現代に生きる私たちに足りないものが一つ見えてきたのかもしれません。

 

 

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